VS ターザン山本!その1

『いいんだね、殺っちゃって?』
ターザンカフェ > ナンパ塾



ターザン山本さんが渋家のパーティーに来た。ターザンは終始、楽しそうにしている。
うんうんと思って僕は酒をかっ食らっていたらブラックアウトして眠りこけてしまったのだ。

と、今日、ターザンカフェを見たら渋家のことが書いてある。見てみると、完全にディスである。ガチンコだ。
これは返答しなければいけない。活字プロレスである。

そういえば、僕が落ちるまでのちょっとした会話ですでに、ズレは露呈していた。
ターザンは、シェアハウスのコミュニケーションにガチの「交錯」がないのではないか、と言っていたのだ。
たしか僕は回らないろれつで、大仁田厚のFMWにたとえて渋家を擁護した。資本金がすっからかんの状態から、
少ないものの独自のファン層を獲得して、ここまでやってきたのである。

ターザンの芸術観は、基本的に6,70年代のものである。破壊、ムチャクチャ、ぶち壊す、といった言葉からそれはよく見て取れる。
当時は、破壊すべき明確な「壁」があったのだ。
それに猪突猛進でぶつかっていけばそれでよかった。つまり、「反体制」というポジションがありえたのである。

たしかに僕はその芸術観が大好きだ。憧れてさえいる。徹底的な非日常は、何より強烈な魅力がある。

しかし、今の時代、そんな壁、なくなってしまった。そういってはばかられるならば、不可視になったのだ。
敵対すべき明確な敵はいなくなった。非日常は、「日常に登録された非日常」でしかなくなってしまっている。

つまり、日常/非日常という単純な二項対立は成り立たなくなってしまった。

アントニオ猪木やジャイアント馬場、ハンセンやアンドレといった怪物たちが暴れていた、終わりなき祝祭の場としてのプロレスさえ、
もはやそのエネルギーを失効してしまって久しい。

それでもなお、何らかの「非日常」を夢見てしまった時、僕ら若い世代はどうすればいいのか?

ターザン山本編集長時代の週プロを神保町の古本屋で漁って、かつての猪木や長州、前田らが表紙を飾り、
「取材拒否」を受けていたアツかった時代を、指をくわえて羨望していることしかできないのか?

そうではないだろう。ではどうするか?

日常の中に、非日常をじわじわ介入させていくしかないのである。
日常そのものに、異物を混入させ、なんだかよくわからないフェーズにズラしていくしかないのである。
日々のどうしようもないしょっぱさをかみ締めつつ、ガリガリ噛んでたら、何か毎日が変な未知の味になってた、的な現象に賭けてるのだ。

そんな感じで渋家は回っている。だから僕からしたら、「ターザン山本」という異物、非日常的存在が入ってきた時点で、もう大勝利なのだ。
あとは寝るでもなんでもしてしまえばいいのである。

今回のターザンの記事は、ここ数ヶ月で、最も熱がこもっていたように見える。
それだけ「炎上」(ターザンが元祖!)している時点で、こっちのもんである。

少なくともターザンのウェブでの反応も含めて、ガチの「交錯」はあったのだ。


中島晴矢
@haruya02


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